「可愛い子には旅をさせよ」の“裏テーマ”に救済された私
この気持ちを忘れないように。戒めの気持ちも込めて書いている。同じような感情を抱き、悩んでいる方の一助になれば幸いである。
10歳になる息子は私に容姿が似ている。私自身がそう思うのだから、幼少期の私を知る人からすれば「小さい時の私にそっくり」なのである。
その息子が春休みを祖母の家(私の実家)で過ごしたいと言った。
たぶん、純粋におばあちゃんちに行きたいという意味で、私たち両親から離れたいというニュアンスは直接的には無いと思っている。が、心のどこかに両親から離れたいという願望が無意識にあったのかもしれない。
私は息子に対し「同族嫌悪」のような感情を持ち、攻撃的な接し方をしてしまっていた。妻の言を借りれば「露骨な娘贔屓(ひいき)」である。
「同族嫌悪」・・・自分と“似ている相手”に対して、むしろ強い嫌悪感を抱いてしまう心理現象のこと
同じような失敗をしたとして、息子には怒る一方でそれが娘だと「まぁ仕方ない」みたいな形で終わらせてしまう。
正直に告白すると、我が子であっても順位付けはある。私の場合は娘→息子の順になっているのは自覚している。
血のつながった娘なのだが、容姿・性別・性格など、分かりやすく私と似ている所が少なく、同族嫌悪のような感情はまるで無い。
一方、息子には、性別・容姿の類似性に加え、ガサツさ、注意力散漫な所、知ったかぶりなど、子どもなら仕方ないことであるのに、私の「イラつきポイント」を突いてくるのだ。
もちろん娘にもイラつくことはあるが、「贔屓」していることで相殺されるのだろう。
そんな息子が私の実家に行き物理的に距離が生じた。ホッとしている反面、冷静になって息子に対する自分の立ち居振る舞いや態度を思い返し、ものすごく反省している。
息子はゲームが好きで、ゲーム機を与えてからは夢中でゲームに勤しんでいる。彼の生活の一番の関心事がゲームになっているような気がして「ゲームに支配されているのではないか」と思ってしまうのだ。
その思考から派生して
習い事の練習を急いでやっているのはゲームがしたいからだ。
課題の文字が汚いのはさっさと終わらせてゲームがしたいからだ。
こんな風に勝手に思い込んで、決めつけてしまった。息子の一挙手一投足に目を光らせて、指摘をし、イライラして攻撃的な態度をとる。
この週末はそれが特にひどく、私に対する息子の態度から、彼を委縮させてしまったのを感じ取り「しまった。やり過ぎた。」と思った。
―「どの口が言うか」。
思い返せば、私の方が彼よりもずっとゲームに憑かれていた。(大学3年生の実家暮らしで昼夜逆転でひたすらゲームしていた。彼の比ではない)
他にもあるが、とにかく私が彼のことをとやかく言えた立場ではないのだ。
息子なりにやるべきことはやり、時間を捻出してゲームをしているのに
習い事の練習をコツコツ頑張っていて、だんだん上手くなっている事を知っているのに
なぜ、それを認めないで、頭ごなしに否定していたのか―
たぶん、好きなことに熱中する彼に対し、仕事・家庭・父親・夫という色々なことに絡まって熱中がままならない私は、彼がうらやましいという妬みがあったのだと思う。
「コピーのような自分」がゲームに熱中して、全振りしているように映って。
似ている所は親子なんだから当然にある。だけど、息子は息子であって私ではないのだ。何なら彼は純粋にゲームが楽しくて楽しくて熱中しているだけなのだ。
息子には息子の世界があって、コミュニティがあって、一部分(今は半分くらい?)で親と重なっているに過ぎないのだ。
今は息子の「世界」の多くを占める「家庭」にあって、彼を守るべき、理解すべき父親から攻撃的な扱いを、半ば言いがかり的な(一方的な決めつけで)受けている息子の心情を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
半ばあきらめの気持ちもあり、口うるさい親から離れて、思いっきりゲームを堪能して楽しく過ごせるのならそれで良いと思い送り出した。
彼がゲーム好きなのは私の両親も知っているが、上記のような私の感情は知らない。
息子には見守りGPSを持たせていて、スマホアプリで現在位置が確認できる。会社のトイレ休憩の際に、アプリを見ると、実家の近所の公園に行っているようだ。
もちろんゲームもたくさんやっていると思うが、それだけじゃない健全な生活を送っているようで安心すると当時に、彼を信用しきれていなかった自分のふがいなさが沁みる。
距離を取ってみること
“可愛い子には旅をさせよ”という言葉がある。
これは子供に様々な経験をさせるのが良いという意味の裏に、親の側も子供を旅に出させて「良い距離感を見つけなさい」という裏テーマがあるように感じた。
少なくとも私は、子どもとの物理的な距離が出来たことで冷静になり、自分の誤りに気づくことができた。
たぶん、この感情も罪悪感も、時間が経てば感覚が鈍ってしまう。今、感情がリアルなうちに言葉に残しておかなければと感じる。感情の賞味期限は短い。
いくら綺麗事を言っても、「息子が私のこれまでの行いを水に流してくれたらいい」という自分を護りたい気持ちが全く無いとは言わない。
水に流すかどうかは息子の気持ちの話であるし、仮に水に流したとしても私の行ったことが無かった事になる訳ではない。
分析は全然できていないが、「息子に優しくする」「息子は息子であって彼の世界は尊重しなくてはならない」という結論は心に決めている。
今回、息子と「物理的な距離」が出来たことで、彼に対する「負の感情のコップ」のようなものに注がれる「負の感情が」ストップした。
加えて、何らかのトリガーでコップの底に穴が開いて、負の感情が排出されている感覚である。毒気が抜けていくような。
何がトリガーだったのかは正直分からないし、多分コレっていう特定の出来事ではなく、いろいろな要因が絡み合っての発動だったのだと考えている。
「同じようなことで悩んでおられる方へ」
これまでの経緯だとか、いろいろな要因があって、私のケースが当てはまる方ばかりではないとは思っています。
私の場合は「物理的な距離を取った」ことで自分の偏見のような歪んだ考えに気づき、誤りを修正するきっかけを得ることができました。
しかし別の要因で、また同じようなことをする可能性も否定できない。
同じ方法は二度と通用しないかも知れないし、定期的に行うことでリフレッシュできるかもしれません。
同じような悩みを持つ方の「解」になる可能性があればと思い、ダメな父親であることを晒して記事にしました。
距離の取り方は、泊りで行くイベントとかでも、部活の合宿とかでもいいし、方法はいくらでもあるかと思います。
物理的な距離を作る事で、冷静になり、相手に対する愛おしさや思いやりみたいな感情を思い起こすことが良い方向に働くのだと思いました。
正直に言うと、息子が帰ってきて、私の気持ちが元に戻ってしまうのが怖い。
だからこそ、この出来事を言葉にして追体験できるようにしておきたかった。というか書き残さずには居られませんでした。
時々この記事を読み返して、この時の気持ちを思い出すために。
なので、あなたのためでもあり、自分のための記事でもあります。
今読んでいるD・カーネギーの『人を動かす』に、リヴィングストーン・ラーネッドという方の「父は忘れる」という文章の引用があり、私の心境と驚くほど合致する内容であることと、それをこのタイミングで読んだことに運命的なものを感じずには居られませんでした。
それと同時に、同じような悩み・罪悪感を持つ父親は昔もいたのだなぁ。とか、「父は忘れる」んだよなぁとか妙に親近感を覚えました。
「父は忘れる」。だからこそ、言葉に残して思い返さなくては。と。
それではまた。
